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「赤塚不二夫の作品」に徹したタモリの弔辞 [その他]

8/2に惜しくも亡くなった漫画家の赤塚不二夫氏。7日に行なわれた告別式では彼とはゆかりの深いタモリが弔辞を読み、「私もあなたの数多くの作品の1つです。」と結んだ一節に思わず目頭が熱くなる印象的なものだったが、なんとあれは白紙の紙を前にしてアドリブで読んでいたらしいという。

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確かにニュース映像でタモリが読んでいる弔辞が書かれているはずの紙が、よく見ると何も文字が書かれていないように見える。
立派な弔辞だったが、文字に起こされたものを見るとところどころ口語調になっていたり、出さなくてもいい寿司屋の固有名詞を出したり、考えて書いた文章としてはややまとまりがないと思っていた。
なるほどねえ、アドリブだったのかー。

ご存知の方も多いと思うが、故人とタモリとの付き合いはとても深かった。
九州からやって来て新宿の飲み屋で抱腹絶倒のギャグをやっていたタモリをいたく気に入り「おまえ、プロになれ」と言って自分のマンションに住まわせ、月に20万の小遣いを与えデビューするまでいろいろと面倒を見て、「タモリ」「不二夫ちゃん」と呼び合うまるで兄弟のような関係だったという。

何事にも楽天的で人生常にギャグだったという赤塚不二夫に最もふさわしい弔辞を、と考えたタモリの故人へ向けての最後のパフォーマンスだったのか。
何とも泣けるシャレである。ていうか、これを知って泣けた。二人の密な関係を物語るエピソードとして、後々まで語られる話になるかもしれないな、と思った。
合掌。


◆タモリ弔辞全文◆

 弔辞

 8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。

 われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。

 何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

 それから長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしかあがりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

 今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。

 私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。
しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。

 平成20年8月7日、森田一義

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コメント 7

MASA

Yakohaさん、はじめまして。nice!ありがとうございます^^。
by MASA (2008-08-09 16:41) 

garko*

ニュースで一部分は見たけど全文は初めてです。
これがアドリブだったとは^^;
一般人なら弔辞とはいえ上がっちゃって絶対に無理ですよねぇ
行きつくところのすべてが「これでいいのだ」ってとこに
納得してしまいました。
ホントに深い絆だったことよくわかる変な言い方だけど素敵な弔辞ですね^^
赤塚さんのご冥福をお祈りします。
by garko* (2008-08-10 18:52) 

MASA

あんな長い弔辞が全部アドリブだったとは、すごいよねー。
「これでいいのだ」の人生でした。
タモリにとっては大の恩人だった人で、よほどウマがあったのかずーっと深い友情が続いたんだよねえ。
惜しい人をなくしました。合掌。


by MASA (2008-08-10 22:41) 

bluebird

やばい、読んでいて泣いてしまった。
by bluebird (2008-08-10 23:02) 

MASA

泣けるでしょ、この話(涙)。
タモリらしいじゃありませんか。イキだなあ。
このあと何事もなかったかのように「笑っていいとも!」の生放送に出てましたからね。
泣きたい気持ちを抑えながらやってたんだろうなー、と思うとまた泣けて来ます。

by MASA (2008-08-11 00:48) 

chitlin

こんばんは!
コメントを残すのはお久しぶりになっちゃいました。

やはり素敵な話ですよねー!
報道ステーションを観て、そうだったのかと膝を打ちましたよ。
動画もアップされてたりMASAさんのように全文を引用されていたりと価値ある瞬間だとホントに思います。
このふたりの間柄だからこそのお別れの仕方、なんでしょう。

故人のご冥福をお祈りいたします。
by chitlin (2008-08-12 00:25) 

MASA

chitlinさん、こんばんはー。
ホントにタモさんの人柄がよく現れたエピソードだと思います。
同時に故人との強い友情が伺い知れるいい祝辞ですね。
謹んでお悔やみ申し上げます。
by MASA (2008-08-12 01:20) 

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